三年目の3・11(1) |
ひとは誰でも
生涯忘れることのできない日がある。
それは、個人的な一日であったり
または
多くの人たちと共有した一日であることも。
まだ記憶に新しい2011年3月11日(金曜日)。
この日は個人的な一日と
同時に、日本人の多くの人々が共有した一日だ。
「東日本大震災」。
今年も、その日がやって来る。
14時46分、東北地方太平洋沖地震が発生。
その被害は
岩手県沖から宮城県沖までの南北約500キロメートル、
東西約200キロメートルの
およそ10万平方キロメートルという広範囲に及んだ。
その後、予期せぬ大津波が沿岸の街を襲い
建物も、車も、ひとも、
あらゆるものを飲み込んでいった。
震災による死者・行方不明者は2万人弱。
未だ、全てのひとの安否が確認されてはいない。
あなたは、どこでその日、
その時を迎えたのだろう?
私は、そのとき自宅にいた。
いまだかつて体験したことのない大きな揺れに
一瞬我を忘れ、近くの壁に手を添えながら
廊下にしゃがみこんだ。
揺れは長く、小刻みに、何度となく襲ってきた。
そして、
その惨劇を知ったのは
テレビで報じた臨時ニュースだった。
後の顛末はご承知の通りだ。
私の友人や知人はすぐさま現地に入った。
取材と称して、
またはボランティアの一員として。
私は彼らから送られてくる生の声を
ネットなどを通じて聞く(知る)につれ
どこにも動けない自分に歯がゆい思いだった。
私が被災地のひとつ
仙台を訪れたのは、震災から半年後のことだ。
同年9月25日、いち早く復興を遂げた仙台空港の
全面復興セレモニーに仕事として出向いたのだ。
仕事で何度も仙台へは訪れていたが
あまりの変わりように愕然とした。
確かに、半年が経過し
幹線道路は通常の状態であったが
その両脇に積み上げられた車両の山や
あきらかに住居らしき形跡はあっても
あるべき
壁も屋根も中身さえもなかった。
時折かろうじて残った家の残骸が
ぺらぺらになって風になびいていた。
まるで、安っぽい舞台のセットのようだった。
それ以降、
私はこの三年間、幾度となく現地を訪れた。
岩手、宮城、福島・・・
それも沿岸部の一番被害が多かった場所の
復興工事関連の仕事で。
昨年暮れにも岩手県釜石市の
復興工事現場に出かけた。
ただ、正直な感想を言えば
申し訳ないが、どこを見ても
「復興」という言葉にはほど遠いのが実情だ。
三年も経過しようとしているのに。
私自身を含め
ひとは忘れることにたけている。
あの時の揺れの怖さや
あの地震後に過ごした不便さも忘れている。
節電だった街の灯りももとへ戻り
「ソチ五輪」に早朝までテレビを観て、
それが終われば、
「東京オリンピック」に浮かれはじめ、
日本の指導者たる輩は
私利私欲のためだけに権力を行使している。
違うンじゃないのか?
どうせ、なにもできないのだから、
せめて、もうじき訪れる3・11の日くらい
あの震災の日を、
多くの犠牲になった人々の気持ちを
多少なりとも
想像するくらいの度量は持ちたいものだ。
たまたま、先日
店主とあの日のことを話した。
それは、次回に譲ろう。
本日も、ご来店、ありがとうございました。
店主に代わりまして、お礼申し上げます。
明日も平和な一日であることを願い、
珈琲のおかわりを注文しよう。