桜、散る |
電報という懐かしい伝達手段を思い出す。
いまは、もうこんな電文はないのかもしれない。
但し、こんな電文が飛びまわるのは
一、二か月ほど前の時期で
「桜」の花が咲いていない季節のことだ。
それにしても、うまいことを言うものだ。
散っても、美しい、という思いからか。
さて、実際の「桜」だが、
いまがもっとも見ごろだろう。
しかし、生憎の雨で散ってしまうかもしれない。
わずかな時間に咲き乱れ、
春の風や雨がその美しさに終止符を打つ。
永く咲くことも、
毎年まったく同じカタチで咲くこともない、
言ってみれば、
一期一会の、潔さみたいなものが
日本人に好まれるのかもしれない。
この季節になると、
「桜」の話題が消えた日はないくらい
どこに行っても
「桜」関連の話しが聞こえてくる。
しかも、「桜」は昼の顔ばかりか、
夜の顔もまた美しい。
天候にも左右されず、
快晴でも、曇天でも、雨天でさえ
それぞれに魅力的な表情をつくる。
と、ここまで書いて、
実は私は「桜」が苦手なのだ。
特に、満開の「桜」が・・・。
そんな話しをしたら、
あるひとが文学的な表現を使って
「桜の木の下には、死体が埋まっている」からな、
などと言っていたが、
まさか、梶井基次郎じゃあるまいし!と
余談だが、
私は、梶井基次郎は好きな作家だ。
彼もまた、大正を生き、昭和のはじめに
32年という短い生涯を閉じた。
その間、
多くの小説を残しているのは承知の通り。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」
という有名な一文は
『桜の樹の下には』という短篇の冒頭部分だ。
余談ついでにもうひとつ、
作家坂口安吾の
『桜の森の満開の下』という作品も好きな一篇だ。
さらに横道に逸れるが、
落語の「あたま山」を思い出した。
ばかばかしいが、摩訶不思議な話しに笑える。
そういえば
落語にも“花見”を演目にしたものが多い。
江戸の頃より
桜の“花見”は庶民にとって欠かせない
日常的な行楽だったのがわかる。
さて、話しを戻そう。
私が「桜」を苦手とする理由だが、
うまく説明はできない。
敢えて言葉にすれば、
満開の桜の花をずっと眺めていると
あの溢れてくるピンク色の鮮やかさに
みるみるむせかえり、
なにか胸が苦しくなるのだ。
そう、あの色が、苦手なのかもしれない。
咲き始めか、散り始めていく桜は
さほど問題はないのに
満開時の桜の、あの圧倒的な色合いに
拒絶反応を起す。
「桜が満開です」などと聞いたら
なるべくそばに近寄らないようにしている。
なので、満開の下での花見など、
とうてい私には考えられない。
桜が満開の間は、
花見にも行けないほど忙しい店主を相手に
のんびり珈琲を飲んでいる方が
私にとっては嬉しい。
多くの方には申し訳ないが、今年も
早く、満開の時期が過ぎることを願っている。
本日も、ご来店、ありがとうございました。
店主に代わりまして、お礼申し上げます。
明日の桜はわかりませんが、
「桜」の苦手なかたは、
私と珈琲などご一緒しませんか。
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