古い雑誌 |
「古雑誌」と「古い雑誌」とは違う。
少なくとも、私のなかの定義では
意味合いが大きく違う。
「古雑誌」は、「古新聞」と同義で
イメージとして捉えるなら
束ねて捨てるものである。
しかし「古い雑誌」は、
“古い”が故に、過ぎ去った時代の情報が
ぎっしりと詰まった、価値の高いものなのだ。
そんな理屈をこねて
家のなかに溜まっていく古い雑誌を
家宝のごとく守っている。
家人が古新聞を束ねるときに
その古い雑誌を指して必ず、
「これ、古雑誌でしょ?」と聞く。
それには、明らかに
「だから、捨ててもいいンでしょ!」
という意味が込められている。
なにしろ、狭い家のなかに
本やレコード、CDからDVDが山積みされ、
そこに雑誌まで詰め込んでいては
家人が毎回そう言うのも無理はない。
これだけほかのモノに
譲歩しているのだから・・・
という無言のプレッシャーも感じたりするのだが。
どうしても、古い雑誌は捨てられない。
わざわざ古本屋で買い求めた
本当に価値のある古い雑誌もあるし、
十代のころ手に入れた
想い出深い雑誌もある。
捨てられない理由はそれだけではない。
普段は眠っているが、
ここ一番というときに
その真価を発揮することが多々あるからだ。
雑誌は、その時々の生きる証言者だ。
そのお陰で
随分いままで私の仕事に役だってくれている。
また、ご存じかと思うが、
“雑誌の図書館”と言われる
『大宅壮一文庫』を
30年以上前になるが初めて
訪ねたときに、雑誌の持つ
色褪せないエネルギーに魅了された。
もっとも、我が家をそんな風に
10000万冊を超える
雑誌の図書館にするつもりなど毛頭ない。
しかし、
せめて自分の仕事へは活かせるだけの
貴重な雑誌はそばに置いておきたいのだ。
それこそ、
珈琲を片手に、
古い雑誌を片っ端から眺め回していると
思わぬアイデアが
ふつふつと湧き出てくるものだ。
ただひとつだけ不満を言えば、
どうも昨今の雑誌は
すぐに「古雑誌」の仲間入りをするような
つまらないものが多すぎる気がする。
だがそれも、今という時代の大事な
“生き証人”なのかもしれない。
本日も、ご来店、ありがとうございました。
店主に代わりまして、お礼申し上げます。
明日もG.W.(連休)真っ只中!
「川越散策」の雑誌片手に、どうぞ当店へ。
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