鬼ごっこ |
子供の頃の「かくれんぼ」は、
いつしか日暮れて
終わってしまうものだ。
だから、
自分が鬼になっても、いつかは終わる。
そう思いながら、鬼をしていた。
そんなとき、ふと、こう考えたことがある。
このまま、誰も探さなかったら、
大勢でいるのに、
“孤独”な遊びだ、と。
いまの子どもたちは
「かくれんぼ」などという遊びをするだろうか。
「鬼ごっこ」は定番の遊びだった。
誰かが鬼になり、
みんなを捕まえるか、探し出す遊びの総称だった。
“缶蹴り”も鬼が存在する。
“達磨さん、転んだ”という遊びも然り。
なぜ、鬼はひとりで、
みんなを捕まえるのか?
しかも、
誰もが鬼の役をやりたがらなかった。
進んで、自分が鬼をやるよ、
などと言う奴はいなかった。
勿論、自分だって鬼は御免だと思った。
でも、順番で回ってくるので
よほどのことが無い限り、
誰もが一度は鬼の役になったはずだ。
鬼は、終始孤独な存在なので
ずっと鬼の役から逃れられずにいると
泣きたくなるときがある。
つい先日、ある知人が
小さい頃は、いじめられっ子でした、
と話していた。
でも、と続けて
「いまの子どもたちのような
なにか陰湿な感じじゃなかったな」
と付け加えた。
どこか仲間内で
なんとなくいじめる子と
いじめられっ子という役割ができて
その役割を互いに
おもしろおかしく演じていたような気がする、
とも話した。
そう、「鬼ごっこ」でも
いつも鬼役でしたよ、と
むかしを懐かしむように笑って言った。
鬼役をさせられていても
けして仲間はずれにはしない。
勿論、暴力だってふるわれたことはない。
だから、寂しさを感じたことはない、と。
ならば、私の方がよほど寂しさを感じていた。
余談だが、
詩人・作家の川崎 洋著作
『日本の遊び歌』という本のなかに
「鬼遊び」という項目があり、
ずいぶん懐かしい遊びが紹介されている。
そのどれもが、子どものころに
一度は遊んだことがあるものだ。
その遊びのひとつに、
やはり「かくれんぼ」があった。
余談ついでに「鬼」という
ものについても調べたが、
これは日本古来から存在する
妖怪のようなものらしいが、宗教的な存在でも。
一度、興味のある方は調べてみると面白い。
むかし、といっても
二十歳を過ぎていたが、
川越の喜多院の境内で
友人ら7、8人いたろうか、
真夜中に「達磨さん、転んだ」
の遊びをしたことがある。
ちょうど「五百羅漢」の前あたりで。
わずかな街灯以外は、
すべて闇のなかで、なんだか、
その遊びに不気味なリアリティが加わり
不思議な気持ちになった。
とくに
私が鬼役をしているとき、
友人たちに背を向けて
「ダルマさん、ころんだよ」と叫び
クルッと振り返ると
誰もいなくなってはしないか、と
妙な不安に駆られた。
どうも、私にとっての「鬼ごっこ」は
孤独な遊びというイメージがぬぐい去れない。
それ以来、
一度も「鬼」の出る遊びはしたことがない。
本日も、ご来店、ありがとうございました。
店主に代わりまして、お礼申し上げます。
明日、「鬼ごっこ」をする仲間を探しに
懐かしい川越の街を歩いてみようか。
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