どちらでもない |
某所でアンケートを求められた。
「ある」「ない」「どちらでもない」と
全ての質問の答えが三択形式になっていた。
正直、面倒だったので
ろくに質問も読まず
全てに「どちらでもない」と記して
アンケート用紙を回収箱に放り込んだ。
こんな曖昧な回答を集計しても
意味ないだろうなぁ、などと考えたけれど
そんないい加減な答え方をする奴は
そうそう居ないだろう、と思い直した。
その後、
ひとづてに、あの日のアンケートは
「どちらでもない」という
曖昧な回答が多かったと聞さ、
一瞬どきりとしたが、
アンケートの総数が百人を超えていたことを知って
少し安心した。
質問の内容はともかく、
まじめに答えた結果が、故意ではないにしろ
(自分のことは棚に上げ)
「どちらでもない」という、その曖昧さに驚いた。
よく聞くことだけれど、
日本人は“曖昧さ”に長けた民族であるらしい。
それ故なのか、
学校では、答えや決断にぐずぐずしていると
「YES」か「NO」か、はっきり答えなさい!
と叱られたものだ。
間違っても、「どちらでもない」などとは
答えづらかった。
僕自身、若い頃は、誰よりも早く
「YES」か「NO」かの決断を下すことを旨として
曖昧な答えをする人間を
どこか軽蔑していたような時期がある。
ひとの上に立つようになると
若い部下に対しても
曖昧さを許さず、
「YES」か「NO」かを強要したりしたことも。
ところが、歳のせいか、最近になって
もの事によっては、「まあ、どっちでもいいか」と
曖昧に思うことが多くなり、
瞬時の判断をなるべく避け、
「YES」とも、「NO」とも
言わなく(言えなく)なった。
例えば、こんな質問にはどう答えるだろう。
「春夏秋冬では、どの季節が好き?」。
若い頃は、時々の気分によって答えが変わっても
「夏!」とか「春!」とか
迷わずにひとつの答えを即答していたけれど
いまはそれができない。
「春はいいね、でも花粉症が・・・
夏は暑いけど、開放的だから・・・
秋は好きでも、中途半端だし・・・
冬は寒いけど、部屋から外を眺めるのはいい」
じゃあ、どの季節?と再度尋ねられると
「うーん、どれもいいけど、どれもなぁ」
と、結局曖昧なまま煮え切れないでいる。
そればかりか、恐らく、その質問自体に
「そんなこと、どれでもいいじゃないか」と
開き直ったりするからタチが悪い。
例えが適切ではないかもしれないけれど、
そうした曖昧さが目立つようになってきた。
これも適切な例とは言い難いけれど
数年前のアルバムを見ていて、
こんな写真をみつけた。
これは、夕景だったろうか、
それとも早朝だったろうか、
どうにも記憶がなかった。
多分、それを写した二十代の頃は
わざわざ、そのどちらかを狙って
撮影をしたことは明らかで、
そのことに確固たる意義があると信じていたはずだ。
でも、いま、こうして眺めている自分は
どちらでもいい、と思っている。
もし、その当時に逆の観方をされたら、きっと
烈火のごとく怒りだすだろうが、
いまは
「夕景ですか?」と尋ねられれば、「はい」と答え、
逆を言われても、即座に笑顔で頷くだろう。
究極なところで
残りの人生に対して
なにを、どうやっていこうか、
という生き方の問題さえ、
「あれもやりたいけど、これもやってみたいしなぁ」と
目指す目標が曖昧で、
結局は「どちらでもない」か、と言うしかない。
本日も、ご来店、ありがとうございました。
店主に代わりまして、お礼申し上げます。
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