漱石の命日 |
昨日に引き続き・・・
というわけではないけれど、
今日、12月9日は
夏目漱石が亡くなった日だ。
漱石は好きな作家なもので
再三ここに登場することをお許し頂くとして
まあ、今日は没後98年目をむかえた
命日ということもあり、
漱石の話題にお付き合い頂きたい。
1916(大正5)年12月9日、
午後6時50分、
鏡子夫人(当時40歳)をはじめ、
中村是公氏以下門弟等四十余名に見送られた。
亨年50(49)歳。
このとき、執筆中だった『明暗』は
最後の作品にして、未完となった。
十代の終わり頃、
つまり30年以上前だけれど
その頃から古書店をぶらぶら覗いては
妙な本ばかり買うのが好きだった。
で、漱石のことで
久しぶりに書棚から引っ張り出したのが
『朝日新聞100年の記事にみる~追悼録(上・下)』だ。
この本の説明を少ししておくと、
1975(昭和54)年に
朝日新聞創刊100年を記念し、
その100年の間に掲載された記事の抜粋版で、
各項目ごとに編集された全10巻からなるらしい。
僕が入手したのは、
その『追悼録』編の二巻ということになる。
この本をみつけたときに
真っ先に「漱石」の死亡記事がみたかった。
リアルタイムで書かれた、
しかも漱石との縁が深い
朝日新聞の記事ということで
躊躇なく購入したのだ。
新聞記事の話に戻ると、
漱石の死亡記事が掲載されたのは翌10日朝刊。
「本社記者夏目漱石氏は―」と書き出しにあるので
作家というより、
朝日新聞の“記者”という
肩書で書かれているのは興味深い。
そこから、最後のときまでを時系列で
かなりのスペースを割いて掲載している。
臨終の模様も
担当医だった真鍋博士から克明に取材し、
最後に発した「有難い」という言葉まで
詳細に報じている。
その翌日からは親交のあった虚子や
中村是公らも、いわゆる追悼文を掲載している。
この本には、後日の掲載文もあるのが楽しい。
特に、1960(昭和35)年のその日、
漱石が眠る東京雑司ヶ谷墓地の法要について
漱石次男の随筆家・伸六氏(漱石没時は9歳)が
文章を寄稿しているが、
身内ならではの視点がおもしろい。
余談だけれど、
“漱石の孫”としてマルチに活躍している
夏目房之介氏は、
漱石の長男・純一氏のご子息。
純一氏は、東京交響楽団~東京フィルハーモニーの
財団理事兼コンサートマスターを務められた方だ。
さすがに、サラブレッドは違う。
話を本に戻すと、
『追悼録(下)』巻の最後は
やはり僕の好きな、世界的コメディアンの
チャーリー・チャップリンの死亡記事で終わる。
1977(昭和52)年12月25日に死去し、
翌26日の朝日新聞朝刊に掲載された。
さすがに、この記事も、そのことも
記憶に刻まれている。
思えば、12月に亡くなったひとがやけに多い。
もちろん、今年も、然り。
それだけ、自分自身も
歳を重ねてきている証でもあるのだけれど。
そこに、または何処かであっても
明らかに“居た”ひとが
“居なく”るのは、いつの時代も寂しい。
本日も、ご来店、ありがとうございました。
店主に代わりまして、お礼申し上げます。
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