絵の話を少し |
油絵を描き始めた。
それは、再三ここで記しているので
詳細は省かせて頂く。
そこで、単なる言い訳でもあるけれど、
これが、なかなか
手に馴染んで来ないので
本当に四苦八苦している。
実際、日常の住み家で絵が描ける環境なら
いざ知らず、なんせ狭い我が家では
絵を描くなんてとんでもない、のだ。
そこで、実家の一室で絵を描いている。
つまり、実家に帰らないと絵が描けないという
なんとも情けない状況なので
毎度、手に馴染みかけると、タイムアップだ。
目と鼻の先の実家ならいいが、
川越の実家と自宅のある朝霞では
どう考えても移動するだけでも、往復で
何だかんだと、2時間以上はかかるし、
まとまった時間というものを確保するのも難しい。
こう見えて、意外にそれほど
暇を持て余している身分ではないのだ。
(かと言って、超多忙でもないけれど~苦笑)
これは絵に限ったことではないだろう。
習い事というのは
(もともと御身に備わった天性のものならいいが)
ほとんどが生きて来た過程で習得したことであり
それは大半が、長い時間をかけてモノにしたことで
一端それから長い期間離れてしまうと
その“勘所”を取り戻すのに
結構時間がかかったりする。
考えてみれば、
学生の頃は、絵に限らず
何でもそうだったけれど
「金はなくとも、時間はあった」から
四六時中好きなことに没頭できたし
毎日、朝から晩まで
よくもまあ、飽きずにそれに取り組んでいた。
その当時を、ある意味ピークとするなら
それに近づけようなんて思うこと自体
おこがましいのかもしれない。
もっとも、当時は“手に馴染む”なんて
考えもしなかったし、
次から次へと
あの手、この手を使いまくり
カンヴァスに絵具を塗りたくっていた。
「あの手、この手」とは
つまり、昨日はピカソ風だったから、
今日はセザンヌ風にするか、なんて
イイとこ取りの、模倣三昧だから
そりゃ、質はともかく
次々と量産できるってもの。
そんなことだから、確かに
“手に馴染む”もなにもあったもんじゃない。
しかし、さすがにこの歳で再開すると
まさかピカソ風もセザンヌ風もなかろう、と
かつてのわが身を反省するかのごとく
真っ白な気持ちで
真っ白なカンヴァスに向かうものだから
ひと筆、ひと塗りするのも躊躇し、時間もかかる。
いやはや、年齢を重ねるというのも
結構やっかいなものだ。
余談だが、先日、一緒に出展する
当店のマスターの様子を聞いてみた。
「忙しくって、
まとまった時間がとれないよ」と嘆いていた。
彼の場合は365日休みなし、
それこそ朝から晩まで
店のカウンターに立っているのだから
これはもっともな話しだ。
その先の会話は、作品のネタばれになるので
止めておくが、
かつての思いを復活させるというのも
なかなか大変なことだよね、と
互いのため息まじりの言葉で、
その話を打ち切った。
さて、どうなることやら・・・。
本日も、ご来店、ありがとうございました。
店主に代わりまして、お礼申し上げます。
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