古いアルバム |
つい先日のこと。
僕も、当店のマスターも高校時代の友人だったN.。
何度かここでも記しているが、
そう、当店カウンター脇に飾られたン十年前の
僕ら十代の頃の写真の中央に写っているNだ。
ある病気で、今から十数年前に亡くなってしまった。
そのNだが、彼の家族が、少しずつ彼の遺品を整理したい
ということで、やはり当店の常連であり
僕とマスターの友人で、もちろんNの友人
Msaru H.氏と二人でNの家まで出かけた。
確かにいつか見た記憶のある
Nの蔵書がそのまま棚に収まっていた。
僕とH氏でそれを丹念に眺め、
彼の遺品となる蔵書のいくつかを頂くことにした。
※ちなみに、この本棚をMsaru H.氏が写した写真は
いま姉妹店の「シマノ紅茶浪漫館」の『仲間展』に
出品されていますので、ご覧ください。
そう、こうして、時間が経つと
Nの思いとは別に消えていくものがあるのだ。
それは誰をも責めることもない。
Nや僕らの記憶に眠るものでも、
家族にとっては価値を見いだせないものがあって当然だ。
僕らだって、いつかはこうして
例え家族であっても処分されるべきものは
処分されてしかるべきなのだ。
そんななかに、
一冊、遠い記憶を呼び覚ます写真のアルバムがあった。
その写真自体はNが独自に撮りためていたもので
そこに写っている僕らは
手元にはないので、あくまでも記憶のなかの画像にすぎない。
それでも、それを見ているうちに
それが撮られた事、撮られた日、
撮られたいきさつなどを思い出した。
あまりにも不意打ちだったせいか、
しばらくアルバムを開けたまま茫然としていた。
彼が撮影し、それをプリントし、
どういう理由かはわからないが、
僕らに見せることもなく
密かにアルバムに貼りつけていたのだ。
それも、1枚1枚にコメントをつけ、
ものによっては丁寧に人物だけを切り取ったりしている。
実は、彼のことで(詳しくは触れないが)
十数年前の、ちょうどGWの最中
慌ただしく動き回っていたのだ。
それは、僕もマスターも
そしてMsaru H氏も・・・。
それだからか、余計に彼の残した
アルバムがなんともいえないものとして
僕(ら)のなかで存在している。
思えば彼との写真など腐るほどある。
長い付き合いだったから、ほんとうにどっさりある。
それでも、このアルバムはそれらとは違う。
そういうアルバムだ。
でも、そんな一冊のアルバムも、
いつかは僕らと共に灰になる日がくるのかもしれない。
せめて、それまでは大切に保管しておこう。
二度と来ない、あの日の想い出を貼りつけたまま。
さて、珈琲一杯にどんな価値を見いだすかは
あなた次第ですが、
どうぞ、今日も素敵な一杯を!
――本日のブログ担当は、自称センチメンタルさんでした。
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