沖縄のことを、ちょっと |
沖縄が本土に復帰してから、
5月15日で45年を迎えた。
戦後27年間にわたるアメリカ軍統治を経て、
1972年5月15日に本土に復帰したのだ。
当店の並びに、そうこの大正夢通りに
沖縄の物産品を扱うお店「真南風」があるのは
既にご存知のことと思うけれど、
そのご主人・新井さんなどは、
きっとこの手の話題には敏感であり、
知識も豊富かと思うので、今さらながら
ここで敢えて言うことでもないのだけれど、
ほんの少しだけ、個人的なことを記してみようと
思うので、この件にお詳しい方は
どうか目をつむってスル―して頂きたい(苦笑)。
45年前の1972年は、
確か中学3年生になったばかりだった。
そして、ごく普通の中学生のように
音楽が大好きで、友人らとギターを弾いたりして
勉強などまったくできない少年だった。
そう、そんな僕が初めて好きな音楽の
コンサートに出かけたのが
ちょうどその年の5月だった。
場所は、東京・日比谷野音・・・
初デビューがいきなり野音っていうのも今では笑うが、
中学の音楽好きな同級生5,6人で、
川越の田舎町から出かけたのだ。
コンサートは、
5月13日・14日の二日間に亘って開催された
第4回『日本語のふぉーくとろっくのコンサート』。
僕らは14日の部に出かけた。
出演者はモップス/かまやつひろし/加橋かつみ/
町田義人/南こうせつとかぐや姫/RCサクセション/
遠藤賢司/はっぴいえんど/クニ河内/ガロ/頭脳警察/
武蔵野タンポポ団/小坂忠/五輪真弓/中川五郎などなど。
初めて目の前で観たミュージシャンにいたく感動した。
で、実は、そのなかで
(もう誰が話したのかは忘れてしまったが)
「明日(15日)、沖縄が本土に復帰する」と
いったことを口にしたのだ。
記憶が曖昧で申し訳ないが、
初めてのコンサート、初めて生で観る
ミュージシャン、そのときに聞いた
“沖縄本土復帰”というタイムリーな出来事・・・
それらが全てひとつの記憶として
中学生の僕のなかに刻まれたのだ。
そして、その翌日からしばらくは
テレビのニュースでそのことばかりが流れた。
急に車の流れが左側通行になり
事故が多発したということ、
米ドルから日本円に変わったことで
商売が大変になったということ・・・
そんなことはよく覚えている。
それからしばらくは忘れていたものの、
高校生になり、入学した高校が狭山市にあったことで
当時は米軍の入間基地がまだあって、
授業中も飛行機が校舎の真上を通過するたびに
爆音が響き、グランドで体育などしている時は
爆音に加えて、
低空飛行に入る航空機の影でグランド全体が
真っ暗になった。
そんなとき、沖縄でも米軍基地の問題が取りざたされ
どこか似ている境遇のことを思った。
しかし、そのうち入間基地は返還され、
身近なものではなくなった。
次に意識したのは大学に入り、
沖縄から来ていた同級生から“本土復帰”のことを
あれこれ聞いたときだ。
ちょうど同じ年頃で迎えた“本土復帰”は、
僕らの想像以上のエピソードが山のようにあり
どれだけ聞いても飽きることはなかったし、
話も尽きることはなかった。
初めて沖縄に行ったのは
その同級生を訪ねて出かけた旅行だった。
それこそ、もうン十年も前のことだ。
その後、プライベートや仕事がらみなどで
沖縄には何度も足を運び、
観光地はもちろん、嘉手納基地周辺や
戦争の傷跡も観る機会を得た。
そんななかで
「沖縄密約」という事件のことを知り、
作家・澤地久枝氏の『密約』にはじまり、
作家・山崎豊子氏の描いた小説『運命の人』や
その本人西山太吉氏の『沖縄密約』などに
夢中になった。
もちろん、僕などはほんの興味本位にしかすぎず、
だからどうなんだ、と問われれば、
何も答えられないのだけれど、
いまも、けっして“過去の出来事”ではない
沖縄の、ほんとうの“本土復帰”とは何なのか?
ほんの少しでも、考えてみるのも
いいのではないだろうか。
こんなことを書き出したら、
沖縄そばを食べながらオリオンビールなど飲みたくなった。
そうだ、(一番近い)沖縄物産店「真南風」へ行こう!
さて、珈琲一杯にどんな価値を見いだすかは
あなた次第ですが、
どうぞ、今日も素敵な一杯を!
――本日のブログ担当は、ちゅら海さんでした。
▼大正浪漫夢通りサイト
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