同窓会は、タイムマシーン |
先日、地元川越の中学校時代の同窓会があった。
卒業以来、およそ45年振りだ。
私は残念ながら都合で出席できなかったが、
かなりの同窓生たちが集まったときく。
何しろ、皆還暦を迎えた方々だ。
これを逃すと、もう一生会うこともなかろう、
と考えても不思議ではない。
現に、この数年の間に
当時親しくしていた仲間の幾人かは鬼籍に入り、
それこそ二度とこの世では会えなくなった。
数日後、幹事を務めた旧友のH君から
<おみやげ>と題してメールが届き、
当日集まった仲間たちの写真を数枚送ってもらった。
ところが、である。
その数枚の写真に写る人物(数十人)のうち、
人物を瞬時に特定できたのは
わずか数人しかおらず、
それも、その数人はいまでも時々会う連中であり、
日々の変化など感じることのない間柄だからだ。
では、ほかの数十人に関しては・・・?
よくよく眺めて見ると、
さらにそのうちの数人までは、
何となく当時の面影を探すことはできるものの
それとて確信は持てない。
ほかの者たちに関しては、
横にしようが、逆さにしようが皆目見当もつかない。
申し訳ないが、
見知った者らがひとりも写っていなければ、
自分とは無関係などこかの“老人クラブ”か
“敬老会”の催しのスナップが紛れ込んでしまったかと
メール自体を疑うところだ。
写真を送ってくれた旧友に
「正直、誰が誰やらよくわからない」と返信を送ったら、
「会場でも、一瞬互いに戸惑った」とのこと。
さらに
「誰もが、浦島タロウかタロコさん状態だよ、
たぶん、キミのことだって、
誰もが“誰?”っていうかもよ」と。
あははは~なるほどね、と笑ってみたものの、
急に家のカガミの前に立ち、
まじまじと顔を写し込んで見たら、
妙にその旧友の最後の言葉に納得した。
自分は、いや誰もが
この容姿とン十年と付き合ってきているから
何の疑問も、ましてや
自分で誰だかわからなくなることなんて
よほどのことが無い限りないのだが、
空白の時間がン十年を超えてくれば、
互いに変化の大小はあれど、
全く変わらないことなどあり得ない。
しかし、ひとはなぜ同窓会をしたがるのか?
ほとんどの者は懐かしさを求めて来るのだろうが、
或る者は、
成功した自分の姿を誇らしげに見せたいという思いから、
或る者は、仕事上の顧客を増やしたいなどという
よこしまな考えを持つ場合もあろう。
なかには、
かつての恋人との密かな再会に期待して・・・
などなど
同窓会に出席する理由はさまざまかもしれない。
いずれにしても、
これは普遍的な行事で、
日本全国、どんな世代にも共通している
大切な行事として存在していることは間違いない。
いやはや、同窓会は
ちょっとしたタイムマシーンのようなものだ。
過去と現在と、
場合によっては未来へも、その思いと共に
自在に往来できる。
次に同窓会が開かれるのはいつになるのだろう。
ひょっとしたら、これが最後かもしれないし、
な~に、あと数年したら、
誰かの音頭取りで、
「また、やりませんか?同窓会!」となるかもしれない。
私のように、今回逃した者は
仮りに数年先に同窓会へ出席したとしても
いまより多くの同窓生たちから
「あのひと、誰?」と言われそうだ。
いや、それより、生きて出席できるかも大きな問題だ。
さて、珈琲一杯にどんな価値を見いだすかは
あなた次第ですが、
どうぞ、今日も素敵な一杯を!
――本日のブログ担当は、私って誰?さんでした。
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