葬式 |
結婚式について語るなら、
葬式についても語っておきたい。
さすがにこの年齢になると
結婚式などというめでたい儀式より、
そちらの方が増えてくる。
友人、知人、肉親、親戚・・・
見送るひとばかりだ。
ひととの関わりが多ければ多いほど
それに立ち合う回数も多い。
店主も、数年前かご母堂様を亡くされている。
いかに順番とはいえ、
やはりやり切れぬ思いだ。
葬式も時代や社会と共に変わってきた。
それこそ明治や大正期など
いまより盛大だったと聞く。
親戚も多かったろう、
世間付き合いもいまよりもっと濃厚だったろう、
そうなれば否が応でも盛大にせざるを得ない。
私事で恐縮だが、
先日叔父を亡くした。
まあ、80歳を過ぎた叔父である、
ある程度の諦めもつくというものだ。
ただ、そのとき、葬儀について親族の間で意見が分かれた。
一般的な葬儀にするか
家族間だけで静かに密葬とするか・・・と。
葬式も、人生の上で大事な通過儀礼である。
そう捉えれば、確かに難しい問題だ。
最後に辿りついた意見は
残された我々親族の意見ではなく
亡くなった叔父はどう考えるだろうか?と。
勿論、叔父はなにも語ってなどくれない。
でも、それは生きている我々が
叔父に代わって、懸命に熟考し、
誠意をもって代弁する以外にないのだ。
結論は、親族のみの小さくも、
静かな家族葬とした。
民族学や文化人類学などで
よく耳にする言葉に「ハレとケ」というのがある。
民俗学者の柳田國男によって記された日本人の世界観だが
時代とともに、この捉え方も変遷している。
そこでも、葬式をどちらに捉えるかという論争があると聞く。
ここで、門外漢の私が述べたところで恥をかくだけなので
詳しくは専門書にあたって欲しい。
いずれにしても、
こうした学術的な議論にまで挙げられる儀式だ。
そう、そのひとの、そのひとだけの人生の終幕である。
けしてなおざりにはできないと思う。
数年前か、やはり身内の葬儀を終え
店主の珈琲を飲みに立ち寄った。
いつもと変わりない、その一杯に
とても癒されたのを覚えている。
精神も肉体も疲れ果てていたが、
苦い、その一杯がすべてを消化してくれた。それを言葉で表すほどの才がないので、
うまく記せないが。
近頃、結婚式のような
派手な演出を行う葬儀が流行っているという。
生前から式場を予約し、
祭壇の写真までスタジオで撮影する。
確かに、それなら、そのときが来たら
親族も楽だろう。
本人もさぞ満足だろう。
でも、と偏屈な私は思う。
それなら、間違いなく「ハレ」の儀式だ。
なにも論争の必要はない。
しかし、それでいいのか?と。
突然訪れた、予期せぬ最後に、
本人は不本意ながらこの世に別れを告げる。
周囲のひとも、同様に哀しみがやってくる。
そんななかで右往左往する。
それが、人間らしくないだろうか。
逝くひとを、ひととして、生きた存在感を
誰もが最後に共有できるとしたら
そんなゴタゴタとしたなかにしか
ないように思うのだが。
店主にひとつ頼みがある。
私が先に逝ったら、
線香も、花もいらないから
苦い珈琲を一杯だけ祭壇に供えてくれ。
ややしめっぽい話しになったが、
生きてるっていうことは、
そういうことだよな、店主!
本日も、ご来店、ありがとうございました。
店主に代わりまして、お礼申し上げます。
明日は、パッと明るくやりましょう!
珈琲を飲んで、やりましょう。