池田満寿夫 |
絵画話しが続き
申し訳ないが・・・。
先日、東京駅の大丸百貨店に出かけた際に、
もう30年ほど前になるが
そこの上階にあるギャラリーで催された
「池田満寿夫展」のことを思い出した。
1980年代はじめだったろうか、
当時銀座に勤めていたので
東京駅やその界隈へはよく出かけていた。
その頃、
なにかと話題を集めていた版画家、
小説家、映画監督・・・などなど
多くの肩書を持ち、マルチに活躍していた
池田満寿夫の展覧会が開かれていた。
池田満寿夫も好きな画家のひとりだったので
平日、仕事の合い間を縫って
ひとりで出かけた。
平日とはいえ、
一番人気が高かった頃であり、
それに加え、その日は
本人のサイン会があるということで
会場はひとで埋め尽くされていた。
サイン会だったのは偶然にすぎないが、
この際だから、本人も見てやろう、
などとミーハーな私は思い、
彼のプログラム(画集)を一冊買いこみ
サイン会の列に並んだ。
池田満寿夫については
まだ記憶も新しいと思うので
あれこれ記すことのないと思う。
だが、ご存じない方のために
あくまで余談として記すなら、
私の生まれた年、
1957(昭和32)年に、
「東京国際版画ビエンナーレ展」に入選し、
徐々に名声を得ていく。
長野県の高校を卒業後、
日本芸術大学を目指し上京するも受験に失敗。
その後十年余り悶々とした日々を送り、
技法を油彩から版画に移行した
26歳のときの入選だった。
それからも紆余曲折あり、
彼はアメリカへ移住。
そんななか、
1977(昭和52)年、
『エーゲ海に捧ぐ』で芥川賞を受賞する。
そう、なんと小説家としても名声を得ることになる。
さらに、自らの原作を
自ら監督し、次は映画界にも進出したのだ。
実は、私が池田満寿夫を知ったのは
この芥川賞を受賞したことからだった。
後になって、
作品のいくつかは以前観たことがあったが
それが彼の作品とは知らなかった。
その後も、数々のスキャンダルや
多岐の分野にわたる活躍で有名人として
市井のひとにも知られる存在となる。
そして、
1997(平成9)年、
彼の著書で「画家は長生きする者が多い」、
となにかに書いていたが、
急性心不全のため63歳という若さで急死した。
その当時の私は、
しばらく、彼のことなど頭から遠のいていたが、
休日を利用して新潟の方へ遊びに行った帰り、
大宮駅のホームにある売店の新聞見出しで
“池田満寿夫、急死!”の報を知ったのだ。
そのときも、確か「画家は長生きする・・・」
という彼の言葉を反芻していたのを覚えている。
話しを戻すが、
そのサイン会の会場で
はじめて池田満寿夫本人と対面した。
だが、
いままでテレビや雑誌、書籍などで知る
彼のイメージとはほど遠い感じがした。
そんなことはよくあることで
さして気にはならなかったが、
それにしても、その時の彼は
どちらかといえば、印象が悪かったのだ。
写真でよく見せていた、
あの屈託のない笑顔が
まるでつくりもののように思えるほど
暗く、疲れた表情ばかりだったのだ。
私の順番が来て、
彼の画集はいくつか既に持っていたので
せっかくだからと、
当時付き合っていた女性に
プレゼントするつもりで
彼女の名前を書いてもらった。
そう、それはその後すぐに
彼女の手に渡っているので
もし今でも持っていれば・・・
ない、だろうな(苦笑)。
それはどうでもいいのでさて置き(笑)、
そんなこともあって、
作品はともかく、彼自身については
少しずつ興味を失っていった。
今ではあまり驚くことではないが
当時は、まだ“マルチ”などと騒がれ、
本業から離れ、
あれもこれもと手を出していく
ちょっと変わった芸術家、
といった評価で収まってしまったことは
ある意味、
彼にとっては不幸だったかもしれない。
亡くなってから
既に20年近く経つが、
今頃になって、時々彼の画集を開くことがある。
ところが、開くたびに
彼の版画や絵画、陶芸といった作品が
色褪せるどころか、
いまでもなにかを触発してくるのには
驚きと感動と・・・
なんとも複雑な思いに駆られる。
こじつけでも何でもないが、
素直に聞いて頂けるなら、
私は画集を開くとき、
珈琲が一番似合うように思う。
この意見には、きっと多くの方が
間髪入れず、大きく頷いてくれるはずだ。
本日も、ご来店、ありがとうございました。
店主に代わりまして、お礼申し上げます。
明日は、「大正館」で画集を開きながら珈琲を!
ぜひ、お試しいただきたい。
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