大正テレビ寄席 |
日曜のお昼になると
いつも思い出すテレビ番組がある。
それは、
公開の演芸番組『大正テレビ寄席』だ。
僕くらいの世代から上の方でなければ、
おそらく知らない方のほうが多いだろう。
僕が小学生の頃、日曜の昼は父親とかかさず観ていた。
思えば、その当時、
唯一父親と一緒に観た番組だったかもしれない。
その後、『笑点』も観はじめたが
僕にとっては『大正テレビ寄席』の印象が強く
それほど『笑点』にハマることはなかった。
『笑点』はいまでも放映されているが
残念なことに『大正テレビ寄席』は、
僕が高校生くらいの頃に終了してしまった。
気になって、いつもながら
「ウィキペディア」で調べてみたら、
『大正テレビ寄席』は、現在のテレビ朝日で
1963年(昭和38年)から始まったとあるから
ちょうど小学校に入る頃だが、
はじまって数カ月は
毎週水曜日の昼に放映されていたとある。
だから、その頃は観ていないので、
その年の秋ごろ日曜日に移った回からは
多分、ほとんど観ている。
ただ、1978年(昭和53年)6月で終了しているが、
中学校に入ってから(1970年以降)は
ほとんど観た記憶がないのだ。
多分、自分のことで忙しく、日曜日の昼頃は
暢気にテレビの前に座っていることなど
まったくなかったのだろう。
興味がどんどん外に向かっていた歳頃でもある。
いまの子ように、家の中(部屋)で
自分を満足させてくれるものなど少なかった時代だ。
しかし、僕の“お笑い(喜劇)”好きは
その番組で出会ったたくさんの
笑芸人の影響によるものであることは間違いない。
考えてみれば、
いまの芸人の礎を築いた方たちばかりだった。
そんな芸人のほんとうの「芸」を観られたのは
僕の宝物かもしれない。
裏を返せば、それだけに
今の芸人に興味を持てないのかもしれない。
最後は哀しい終わり方だったが
“あ~あ、やんなっちゃった”という
フレーズが当時の子供の間でも流行った
ウクレレ漫談でお馴染みの
牧伸二が司会進行を勤めていた。
演芸番組でありながら
落語家はほとんど登場しないけれど
立って漫談を演じる
林家三平が、アコーディオン奏者を連れて
“よしこさ~ん”~♪と歌う芸も観たし、
お笑いのコンビでは、
コロンビア・トップ・ライト、
獅子てんや・瀬戸わんや、
夢路いとし・喜味こいし
春乃チック・タック(タックは後の高松しげお)
のやりとりに爆笑した。
なかでも好きだったのが
Wけんじというコンビだった。
そうそう、舞台いっぱいに
飛んだり、跳ねたりして元気のよい
若手コンビのコント55号にも驚いた。
横山やすし・西川きよしにハマったのも
この頃の二人を観てからだ。
トリオ漫才も、かしまし娘、てんぷくトリオ、
漫画トリオ(横山ノック・上岡龍太郎・青芝フック)
ナンセンス・トリオ、チャンバラトリオなど
後に芸人だけに飽き足らず
各方面で活躍する人たちもいた。
ピン芸人としては、唐草模様の風呂敷を背負い
ズーズー弁で話す東京ぼん太、
“おじゃまします”の南州太郎、
帽子をつかった芸に感心した早野凡平、
後に国会議員になる八代英太や
白版を使った医療関係を題材にしたケーシー高峰など
思い出せばキリがない。
“レッドスネーク、カモン”という
ワンパターンの芸が笑えた東京コミックショー、
コミックバンドの面白さも知った
ドリフターズやドンキーカルテットはご存知の通り、
“あたしゃ、も少し背が欲しい~”の
玉川カルテットなどは“音楽”で遊べることを学んだ。
こうして話しだすと、
ひとり(一組)ずつ語っていくだけで、
半日は過ぎるから(笑)、
個々についての想い出話しはまたの機会にしよう。
ちなみに、『大正テレビ寄席』の
「大正」は「大正館」のそれとは違う。
番組のスポンサー(某製薬会社)の名前を
その冠をつけた。
でも、当時の僕は、「大正館」のそれと
同じだと思っていた。
いまの小学生に比べたら、なんと純粋なことか・・・
いや、僕が無知すぎたのか(苦笑)。
▼番組は違うが、懐かしい顔ぶれが観られるので↓
本日も、ご来店、ありがとうございました。
店主に代わりまして、お礼申し上げます。
▼大正浪漫夢通りサイト
http://www.koedo.com/index.html