やっぱ、人だね |
幸せな気分になるも
不幸な気分に陥るのも、
きっと、やっぱり、
「人」との関わりや
その関わる相手の「人」間性によって
生まれるんじゃないかな。
ここのところ、
どうも体調が優れず
(特に腰痛とそれから生じる右足の激痛により)
大正館にも顔を出せず
従って、店主の、あの笑顔も拝めず(笑)、
そのせいか気分がふさぎがちになる。
そんなとき、
親しい友人らの、何気ない言葉が
やたらうれしかったりする。
普段は、さほど気づかない
ほんとうに、ありふれた言葉でも
自分に向けられる
こんな温かな言葉があったのか、なんて
やや大げさに感激してしまったりする。
でも、まあ、それは
親しい友人らの言葉だから、というのもある。
それはそれで、確かにありがたい。
しかし、日常で、
多くのことと関わって生きている以上、
そうそう、親しい友人とばかりは居られない。
だから、そう、ここしばらく
体調を崩してしまってからの間、
幸せな気分と、不幸な気分を
ジェットコースターのように行き来している。
そして、その要因のほとんどが
「人」との関わりや
相手の発する言葉などから生じることだ。
仕事上だけの付き合いの人から
街のいたる場所で
偶然出くわす(またはすれ違う)人の
それこそ、何気なく発せられた言葉に
普段以上に傷つく。
しかも、こんなときは、
その、胸に突き刺さった鋭利な言葉が
一晩中頭のなかでうろうろしたりする。
もちろん、僕自身にも非がないわけでは
ないとおもうけれど・・・。
そうかといえば、
まったくの見知らぬ他人や
思いもかけなかった知人から
予想もしていない場所やときに
ふっと投げかけられた
温かく、優しい言葉に
涙がでるほどうれしく、
幸せな気分に満たされることがある。
それも、活字にしてしまうと
なんとも陳腐だったり、
当たり前すぎて、呆れられるような
そんな、ごくごく普通の
ありふれた言葉だったりするから、
冷静に考えると、
とても不思議なのだけれど。
そう、多分、それは“こ・と・ば”というより
それを発する「人」にあるんじゃないか
そんなふうに思うのだ。
例えば、大正館の店主なら、
こんな僕に
「まあね、そんなこともあるよ」なんて
あっさり言うだけかもしれない。
でも、目の前に差し出された
熱い珈琲とともに、
あの店主の顔で言われたら、
こんな今の僕(の状態)なら、
最高に幸せな気分に浸ってしまうかもしれない(爆)。
土曜日の午後、
熱い珈琲を淹れて、
痛む腰と右足をさすりつづけている
こんな僕に情けなさを感じるけど、
こんなことをつぶやいては
自分を励ましているのだ・・・
「やっぱ、人だよな、人」。
本日も、ご来店、ありがとうございました。
店主に代わりまして、お礼申し上げます。
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